公益社団法人 島根県柔道整復師会

整骨、整形外科の基礎を築いた我国医史伝中の人物
 二宮彦可( にのみ やげんか )

二宮彦可

二宮 彦可(にのみやげんか)は整骨書「正骨範」上下二巻の著者として、我国医史伝中の人である。
 彦可は瘍科医であり浜田に初めて藩校長善館を創設した、 小篠 敏(おざさみぬ)の長男に生まれる。
 彼は授乳期に乳母の梅毒に犯されながらも寝食を忘れて勉強すると共に、闘病にも精魂をうちこみ、広島の山県良班のもとで口内化、恵美三白について内科、大阪の三井玄儒について眼科、京都に登って賀川玄吾について産科等を会得する。 一方では屢々山脇東門の塾、赤穂に義兄加美紀の師赤松滄洲、岡山の湯浅常山、長州の栗山考庵、福岡の亀井南溟らの元で学びつつ、足は自ら西洋医術のメッカ長崎に向かっていったのである。
 長崎の通詞兼蘭方医吉雄耕牛のもとで外科を修業し、耕牛から当時長崎本下町に居住して、徒手整復法に名のあった吉原杏蔭斉を紹介され、その実技の修業を行った。ここで研鑽十年の後寛政三年(1791)郷里浜田に帰ってきた。
 第十二代藩主康定は彦可が病魔と闘いながら苦学力業、医術として修めざるなき努力としを賞して加禄の上、侍医に任用した。そして彼の卓越せる手腕を高く評価し、江戸の桧舞台で大いにその名声を挙げさせんものと寛政五年(1792)江戸に随行せしめた。

正骨範

彼は藩主の期待に応え、その手腕を発揮するとともに、吉原杏蔭斉の徒手整復法を集大成し、文化五年(1808)「正骨範」上下二巻を版行した。
 本書は上巻に於いて、総説及び基本的理論並びに方法について述べ、下巻に於いては正骨母方十五、子法十六について懇切に図解している外、その正骨手法の補助となる諸薬剤の調合法まで丹念克明に記載している。この「正骨範」は江戸・日本橋通壱丁目須原茂兵衛、浪華・心斉橋筋安堂寺町大野木市兵衛、京都寺町通松原通過ル町勝村治右衛門方から発行された。
 彼はこの著書によって全国的にその名を知られ、我国整骨医の元祖と称せられるに至ったのである。
 彦可はその師吉原杏蔭斉が開発した正骨法を基礎として研鑽を積みこれを集大成したのにかかわらず「正骨範」の序文に於いて、この正骨法は全てわが師の創意秘蘊に因るものと謙遜し、この術を学ぶ者は先生の高徳を忘する勿かれと延べ、医生のみならず一般の人もこの正骨法を心得て居れば不具廃疾となるものも少なくなるので敢えて奥義を公表するのだと言っている。彼は名医であるとともに善医であったのである。浜田の観音寺にある父敏の墓碑銘に「長男献字彦可冒険 二 二宮氏 居 江都 名千善意」とあるは宜なるかなである。
 彦可の著述には又「叟楽忍真方」一巻がある。本書は彼が父敏、曽祖父玄花、養家二宮家の家方をはじめ民間所伝の方、交友、師匠から伝授された処方を収録したものである。彼は文政十年(1827)10月11日、74才をもって闘病と学研の生涯を終わった。遺骸は浅草永住町長遠の法域に葬られた。

二宮 彦可 案内掲示板設置 2007/12/02 二宮彦可先生の顕彰の説明版除幕式
 平成19年9月30日午後1時より、島根県浜田市観音寺参道において整骨、整形外科の基礎を築いた浜田藩医、二宮彦可(にのみや・げんか)を顕彰する説明版の除幕式が執り行われた。
 この説明版は島根県整骨師会の社団法人設立三十周年記念事業の一環であり、彦可の業績を讚え広く世間に知って頂こうと設置されたものである。
 二宮彦可は浜田藩の偉人「小篠東海」の長男として遠江国浜松にて誕生、14歳の時、浜田藩医、二宮元昌の跡を継ぎ、19歳で医学修行の為、広島、大阪、京都にて内科、眼科、産科等を学び、その後長崎にてオランダ通詞兼蘭法医の吉雄耕牛の塾にて外科を、吉原杏蔭斎から徒手整復法の研鑽を積み活躍をする。
 「正骨範」は上巻(総説、基本理論と方法)。下巻(正骨母法15、正骨子法36を図示)の二巻から成り、日本の正骨(現代の整骨・整形外科)の元祖と称せられ我が国の医史伝中の人物である。
 また、今年は彦可没後180年にあたり彦可と島根県整骨師会の物故会員の追悼法要も執り行われ、先人の偉業を讃えると共に、現在柔道整復師を取り巻く環境は厳しいが一致団結し乗り越えていこうと決意を新たにした一日でもあった。
 この日は9月28日に逝去された宮川重雄元島根県会長のお通夜の日でもあった。先生は社団法人の認可をほとんど一人で収入印紙代だけで成し遂げ、整骨史を深く研究し、二宮彦可師の説明版の設置に尽力されたのであった。島根県会員は師とも父とも崇める方であった。東京まで遠い地で交通不便のため中央での活躍が出来なかったのは返す返すも残念でならない。
 尚、この事業は、地元紙、全国紙の地方版にも写真入りで大きく取り上げられた。


◆ 前のページに戻る